十字軍遠征までの経緯
トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に、神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は"Dieu le veult!"(神の御心のままに!)と答えたという。
なお、本稿では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。
なお、回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっている(大部分は聖地にたどり着けていない)。
第1回十字軍
- 1096年~1099年。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、陵辱、略奪を行いながらエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は一致団結することがなく、敗走するか戦わずして十字軍を通し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国などいくつかの十字軍国家がつくられた。
第2回十字軍
- 1147年~1148年。しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返し、エデッサ伯国を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけて結成された。当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。なんとかパレスチナにたどりついた軍勢もダマスカス攻撃に失敗し、フランス王らはほうほうのていで撤退せざるを得なかった。
第3回十字軍
- 1189年~1192年。1187年に「イスラムの英雄」サラーフッディーン(サラディン)により、およそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ、落馬し、鎧のために溺死した。あとを継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフアッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。
第4回十字軍
- 1202年~1204年。ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラを攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。
第5回十字軍
- 1218年~1221年。アッコン王国(エルサレム王国の後身)のジャン・ド・ブリエンヌらがイスラムの本拠であるエジプトを攻略するも失敗。この頃、遙かアジアの彼方から謎のキリスト教国プレスター・ジョンが大軍を率いて十字軍を救出するという情報を聞き、彼らに呼応して挙兵したと言われている。しかし現実にはその大軍が、後にヨーロッパ全土を震撼させるモンゴル帝国の来襲である事を彼らは知るよしもなかった。
第6回十字軍
- 1228年~1229年。グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征。当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル・カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく平和条約を締結。フリードリヒはエルサレムの統治権を手に入れる。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解く。
- 1239年に休戦が失効し、マムルークがエルサレムを再占領した。1239年-1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、やはり戦闘は行わないまま帰還した。
第7回十字軍
- 1248年~1249年。アル・カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。1248年にフランスのルイ9世(聖王ルイ)が遠征するが、アイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になり、莫大な賠償金を払って釈放される。
第8回十字軍
- 1270年。フランスのルイ9世が再度出兵。アフリカのチェニスを目指すが、途上で死去。
第9回十字軍
- 1271年 - 1272年。第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。イングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり1291年に全滅する。
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年-1187年及び1229年-1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。